夏侯惇

夏侯惇
夏侯 惇は中国、後漢末から三国時代の武将、政治家。字は元譲(げんじょう、Yuánràng)。豫州の沛国譙県(現在の安徽省亳州市)の人。前漢の高祖に仕えた夏侯嬰の末裔という。曹操と夏侯淵の従兄弟に当たる(演義では夏侯淵の兄)。また、『三国志』(裴松之注引)の『曹瞞伝』によると、曹嵩(曹操の父)は叔父(父の弟)に当たるという。

14歳の時、学問の師を侮辱した男を殺し、荒い気性を持つ人として知られるようになる。曹操が拳兵した時から武将として付き従い、190年に司馬に任じられた。曹操が董卓配下の徐栄に敗れると、夏侯惇は曹操と共に江東の丹陽郡などへ出向いて、精強な兵士の徴集に当たった。その後、折衝校尉・東郡太守に任じられた。

194年、曹操が陶謙を攻撃すると、夏侯惇は濮陽の守備を任せられる。呂布が陳宮らと謀って兗州を急襲した時、荀彧に呼び出された夏侯惇は、到着したその日の内に、城内で叛乱を企てていた者たちを速やかに逮捕して処刑した。その後、曹操の家族を守るために軽装の兵を率いて鄄城に向かうと、呂布の本隊と遭遇した。呂布は濮陽に入り、部下の将に策をもって夏侯惇を捕らえさせた。夏侯惇の陣営は恐怖に陥ったが、夏侯惇の下に属していた韓浩の、主を人質に取られているも臆しない果敢な対応が功を奏し、結果として夏侯惇が救出されている。曹操が帰還すると呂布討伐に従軍したが、左眼に流れ矢が当たる怪我を負った。王沈の『魏書』によると、このことから、夏侯淵と区別するために盲夏侯とあだ名された。だが夏侯惇は嫌がり、鏡で自分の顔を見る度に怒って、鏡を投げ捨てたという。198年、呂布配下の高順が沛にいた劉備を攻撃すると、その救援に赴いたが、自身も高順に敗れた。

陳留太守・済陰太守を歴任し、また建武将軍を付加され、高安郷侯に封ぜられた。(陳留の)太寿の川をせき止める堤防を築き、自らもっこを担いで稲を植えるよう指導した。このように夏侯惇は将軍の任務の他に、孫権の配下に対して中央の辞令を送ったり、韓浩・衛臻ら忠勇の士を推挙したりするなど、実に幅広く実務をこなしていた。199年には、洛陽の長官である河南尹に転任した。曹操が河北を征伐するとその後詰めを務めた。

劉表を後ろ盾にした劉備が曹操の留守を狙って葉(しょう)へ侵入すると、夏侯惇は于禁・李典を従えてこれを迎撃した。劉備は屯営を焼き払って博望に撤退した。李典は「伏兵があるので追ってはいけません」と諌めたが、夏侯惇はこれを聞き入れずに追撃した。案の定伏兵の攻撃を受けて危機に陥ったが、李典に救出された。

204年、鄴が平定されると伏破将軍に昇進した。206年、并州の高幹が劉表と結んでいた張晟と共に反乱を起こし、河東の衛固・范先がこれに呼応すると、曹操は夏侯惇を彼らの討伐に向かわせた。河東太守の杜畿は、夏侯惇の軍が着く前に衛固らのもとへ行って油断させ、それから張辟に篭って彼らを防いだ。そこに到着した夏侯惇が高幹・張晟を撃破し、衛固・范先を捕らえて処刑した。

217年、曹操と孫権が濡須口で戦ったが、互いに被害を出したために和睦が成立した。曹操は許昌に帰還する際に、夏侯惇を揚州方面全二十六軍の総司令官に任命。居巣湖辺に留め、曹仁・張遼・臧覇・司馬朗らを率いさせた。その直後、孫権は曹操に対して臣従の意を示した。

220年正月、曹操が亡くなり曹丕が魏王を継ぐと3月に大将軍(三公を凌ぐ軍務・軍政の最高職)に任命されたが、延康元年(220)の四月、曹操の後を追うかのように病に倒れ、この世を去った。諡は忠侯。

長子の夏侯充が後を継いだ。233年(曹丕の嗣子・曹叡の代)には、曹仁・程昱と共に曹操の廟園に祀られた。

『三国志』では夏侯惇の前線での武勲はあまり書かれておらず、むしろ民政官や留守司令官としての功績が多く記されている。明帝紀など他の人物の伝には、具体的ではないものの、武功が非常に高かったということが記されており、前線での戦いは苦手としながらも後方での実務を得意とした武将であったことが伺える。