袁紹

袁紹
袁紹は中国の後漢末期の武将・政治家。三国志に登場する群雄の一人。字を本初(ほんしょ)。

【名門の実力者】
霊帝時代の大将軍・何進との縁もあり、若い頃から侍御史になり、中軍校尉、やがて司隷校尉まで登る。霊帝の死後、何進にすみやかに宦官を排除するよう進言したが、受け入れなかった何進は逆に宦官によって殺されてしまう。袁紹はこれを機に兵を動かし、宮中の宦官らを殺害、死者は誤って殺された者も含め、2000人に及んだ。

董卓は少帝を廃して陳留王(献帝)を立てようとした時、太傅の袁隗を叔父に持つ袁紹に相談を持ちかけた。袁紹は表向き賛成したが、そのまま冀州に逃亡した。董卓はこれに激怒したが、その後、名門である袁氏の勢力を恐れて、袁紹を勃海郡の太守に任命している。190年、橋瑁の呼びかけ(『演義』では曹操)で諸侯が董卓征討の兵を起こし、連合軍が結成されたときは、きっての実力者だった袁紹が盟主に推挙された。この時、盟主に袁紹を推挙したのは、曹操だったといわれている。

連合軍は董卓軍と攻防するも、諸侯はそれぞれ自らの理を重視して行動しており、果敢に攻めいるものは少なかった。袁紹は諸侯を完璧にとりまとめることはできず、諸侯は足の引き合いを始め、連合軍は攻めあぐねる。次第に袁紹は孫堅、曹操と作戦面で対立するなど連合に不協和音が目立ちはじめ、劉岱と橋瑁が反目したり、兵糧が尽きたりなどして、最終的に董卓の長安遷都という形で連合は瓦解した。

【勢力拡張】
董卓征討軍が解散したのち、袁紹は同じく名門袁家の出で、勢力を誇る袁術と対立を深める。諸侯はそれぞれが袁紹と袁術と盟約を結んだ。このとき、袁紹と同盟したのが曹操・劉表・韓馥など、袁術と同盟したのが孫堅・公孫瓚・陶謙などである。袁紹は董卓により擁立された献帝に対抗すべく、大司馬劉虞の擁立を計画したが、袁術や公孫瓚はこれに強く反した。191年に謀略をもってして韓馥より冀州牧の地位を譲り受け牧となる[1]。192年、兗州において曹操と共に袁術を打ち破り、袁術を寿春へ退かせた。197年に大将軍に任じられ

た。 袁術と手を結んだ公孫瓚は、かねてより異民族への方針を巡って関係の悪化していた劉虞を殺害、袁紹と公孫瓚の対立はさらに激化する。袁紹は公孫瓚と交戦し、公孫瓚の従弟の公孫越を殺害。これに激怒した公孫瓚に対して袁紹は講和を図ったが、結果的には総力戦に発展。192年、界橋の戦いにおいて袁紹は麹義の活躍により辛くも勝利を収めるが、その後の追撃で公孫瓚の籠る城を落とせず、退却したところを逆に追撃されて大敗を喫する。公孫瓚は南進して諸郡を攻めるも、袁紹は数万の軍を出動させる構えを見せ、2年余りの長期戦と化す。結果的に袁紹は自領を守りきった。

その後、鮑丘の戦いで配下や劉虞の旧臣が公孫瓚を破ると、公孫瓚は10年は籠ることのできると言われる難攻不落の易京城に籠城。袁紹は城外の張燕・公孫続と城内との連携作戦を察知し、これを破る。199年、地下道を掘り進めて易京を陥落させて幽州を手中に収め、公孫瓚を滅亡に追い込む。更には息子達に軍を預けて青州や并州にも勢力を拡大し、肥沃な河北四州を治めることに成功。同時代屈指の一大勢力を築きあげた。

【曹操との決戦】
その後、河南一帯を統一した曹操と対立を深める。中原の二大勢力となった両者の対決は必至であった。200年には、持久戦を主張する沮授や田豊の言を退け官渡の戦いと呼ばれる一大決戦に臨んだ(田豊は元々、曹操が河南攻略のために転戦していた留守を狙い、電撃戦で洛陽を奪取すべしという策を進言していたが、袁紹は息子の病気を理由にこれを退けていた。その間に曹操は河南を統一してしまったため、やむを得ず田豊は持久戦主張に策を切り替えたがこちらも袁紹は受け入れず田豊を投獄し、結果的に時勢を読み切れずに機を逃がす)。

緒戦こそ白馬・延津で顔良・文醜らが討ち取られるなど出鼻を挫かれたものの、兵力・物資で勝る河北軍はじりじりと陣営を圧迫し、一時は撤退を考えさせるほどの状況に曹操を追い込む。しかし、陣中の不和から最古参の重鎮許攸が曹操軍に寝返り兵糧庫の所在を暴露。それを焼き打ちされたことが大きな打撃となり、また高覧・張郃らの降伏などもあって結果的には冀州に敗走した。

この官渡の戦いで曹操と袁紹の勢力差が逆転したといわれることが多いが、敗戦後に冀州の各地で袁紹に対する反乱が勃発したとき、袁紹はこれらを全て平定している。また、曹操も袁紹存命中は侵攻しなかったため、敗戦後もその国力・勢力は曹操を上回っていたと思われる。

しかし、曹操との戦いで敗れた苦痛から病に倒れ、建安7年(202年)5月に死去した。